江崎燈台は、瀬戸内海の難所といわれる明石海峡を望む、淡路島の北端にあったそうです。
明治4年英国の技士ブラントンによって設計された退息所も、燈台と同じように花崗岩の切石を積み上げて堅牢につくられていたようですが、平成7年の阪神淡路大震災によって屋根瓦が落ち、壁面に亀裂が入った為、取り壊され四国村に移築復元されたそうです。
坂出市の沖合い鍋島にあったそうです。
江崎燈台と同じく、英国の技士ブラントンが設計し、明治6年に竣工し、この建物は昭和30年頃まで本来の宿舎として使用されてきたようですが、その後は海上保安本部の通信施設として使用されていたそうです。
正面の6本の円柱と屋根瓦のバランスは素晴らしいものです。内部の天井は板張りで、暖炉のある部屋、畳敷きの部屋などがある和洋折衷型の建築学的にも貴重な建物だそうです。
愛媛県松山市の沖、クダコ水道にあったそうです。
明治36年に竣工しましたが、燈台の無人化に伴って、この退息所が不用になったため四国村に移築復元したそうです。
この建物はレンガ造で、外壁がモルタル仕上げ、屋根は桟瓦葺きだそうです。
内部は左右二つに分け、に家族用にし、押入れ付き和風の部屋が配してありました。外観洋風、内部和風の不思議な建物でした。
土佐は高級和紙の産地です。
伝統の和紙づくりのため、楮や三椏を釜の上に積み込んで蒸すのがこの小屋だそうです。
寄せ棟造り茅葺で間口3間、奥行き2間。かまどのつくりと大桶フタの上げ下ろしの装置が特徴だそうです。
紙作りは、切りそろえた楮や三椏を束にして釜に立て、上から桶をかぶせて蒸す。
取り出して皮をはぎ、黒皮を取り、水に浸して白皮をモチにして叩解棒(こうかいぼう)でたたくのだそうです。
最後に水に入れてすくい上げ、紙にすく・・・・・・という
とても手の掛かる作業だったそうです。
剣山の北斜面、つるぎ町にあった山村農家だそうです。
正面にのみ戸口を開いており、他の三方は壁で閉ざされておりました。
オモテの前面に縁側が設けてありました。
太い梁を組んだ空間構成は力強く、魅力的でした。
イロリ、かまど、自在鈎など現在では懐かしく思える建物でした。
穀類を精白する為に臼に入れて杵で搗く方法は、古くから行われてきたようです。
のちに足を使う唐臼で搗くようになり、やがて水力を利用した水車に変わってくるそうですが、水車には相当の水量が必要であり、製作も大仕事で思うようにいかなかったようです。
当時、水が少ないところでは、個人又は隣近所が共同利用したのが添水唐臼で俗にソウズと呼ばれていたそうです。
誰にでも簡単につくる事ができ、水が少なくても時間をかけると精白できる貴重な道具なのだそうです。これは昭和30年頃まで徳島県一宇村(いちゅうそん)に残っていた唯一の遺構を復元したものだそうです。
江戸時代から、讃岐は塩どころとして知られていたそうです。
全国の塩の生産量の半分を近くを占めていたのが、坂出塩田なのだそうです。
その基板をつくったのが、久米通賢なのだそうです。
平賀源内とともに、讃岐を代表する江戸時代の科学者の住宅だそうです。
母屋の解体に当たって天井から裏から、測量器具、大砲の鋳型などが発見されたそうです。
四国すごい人材がいたんですね!
コメントを残す